暁星が生んだ「日本カトリックの父」──哲学者にしてハンセン病院長・岩下壮一の生涯

「天国」と呼ばれた療養所
静岡県御殿場市、富士山の裾野に広がる緑のなかに、日本最古のハンセン病療養施設・神山復生病院がある。1889年にフランス人神父によって開設されたこの病院は、かつて「天国」と呼ばれていた。患者も職員も地域住民も自由に往来できる生活圏を形成し、死後埋葬される墓地においてさえ地域の人々と共存する。日本のハンセン病史において、強制隔離と差別の記憶が色濃いなかで、なぜこれほど稀有な場所が生まれ得たのか。
その答えの中心にいるのが、第6代院長・岩下壮一(いわした・そういち、1889〜1940)である。東京帝国大学哲学科を首席で卒業し、日本におけるスコラ哲学研究の第一人者として大学教授のポストを約束されながら、学問の道を捨てて司祭となり、最後はハンセン病患者のもとに身を投じた。カトリック司祭の職務のなかで、ハンセン病療養所の司祭は最も地位が低いとされていた。岩下はそのことを知りながら、ためらいもなく院長を引き受けている。
大正から昭和初期にかけて「日本カトリック教会の精神的指導者」と呼ばれた岩下壮一。その出発点は、九段の丘のフランス系カトリック男子校・暁星にあった。
目次
第1章 銀座に生まれ、暁星に育つ
実業家の父と華族の母
岩下壮一は1889年(明治22年)9月18日、東京府京橋区采女町──現在の銀座五丁目──に生まれた。父・岩下清周は三井銀行を経て北浜銀行頭取となり、箕面有馬電気軌道(現・阪急阪神ホールディングス)や大阪電気軌道(現・近畿日本鉄道)の創設に関わるなど、関西財界で広く活躍した実業家だった。母・幽香子は華族出身のカトリック信者である。
清周は聖公会(英国国教会系)の信徒であり、幽香子はカトリック。壮一はこのキリスト教を軸とする家庭環境のなかで育った。清周が三井から独立して品川電燈会社を設立したのを機に、一家は芝区高輪南町(現・港区高輪)に移る。
しかし壮一の幼少期は順風ではなかった。小学校に入る前に関節炎を患い、右足に障害を負っている。多方面にわたる産業家であった父・清周は、壮一をマサチューセッツ工科大学に留学させて実業家に育てたいと考えていたが、足の障害がその構想を変えることになる。
暁星中学校──フランス語とカトリックの原体験
壮一が暁星小学校、そして暁星中学校に進んだのは、母・幽香子のカトリック信仰と深く結びついている。暁星は1888年にフランスのマリア会宣教師によって設立されたばかりのカトリック男子校であり、フランス語教育を特色としていた。
壮一は1901年、12歳のときに暁星で受洗した。洗礼名は「フランシスコ・ザヴィエル」──日本にキリスト教を伝えた聖人の名である。代父(ゴッドファーザー)は海軍軍人の山本三郎が務めた。この山本三郎は、のちに暁星出身の海軍少将として知られる山本信次郎の兄であり、山本三郎はやがて岩下壮一の姉・雅子と結婚して縁戚となる。暁星の「カトリック・フランス語ネットワーク」は、信仰と婚姻と教育を通じて、重層的に結びついていたのである。
暁星で壮一は英語とフランス語を徹底的に叩き込まれた。中学卒業時には両語が「完成」していたとされ、この語学力はのちの学問的達成のすべての基盤となる。さらに暁星時代にラテン語とギリシア語の自習も始めており、中世スコラ哲学の原典に直接向き合う準備を、十代にしてすでに整えていた。
岩下家のカトリック
岩下家はカトリック信仰の家庭であったが、とりわけ注目すべきは末妹・亀代の存在である。亀代は聖心会に入り、日本人として最初の聖心会修道女となった。壮一が1925年にバチカンで司祭に叙階されたほぼ同時期に、亀代はローマで終生誓願を立てている。兄は司祭、妹は修道女──この家庭がいかに深くカトリック信仰に根ざしていたかがわかる。
第2章 一高から東京帝国大学へ──哲学の道
一高時代の交友
暁星中学卒業後、壮一は第一高等学校(一高)に進学する。日露戦争の時代である。一高では同年代の俊秀たちと出会った。天野貞祐(のちの文部大臣)、和辻哲郎(倫理学者)、谷崎潤一郎(作家)、そして九鬼周造(哲学者)らが同期または近い世代にいた。
暁星仕込みのフランス語を持ち、端正な身なりで通学する壮一は、バンカラ気風の一高においてはやや異質な存在だった。「いわゆる一高型のバンカラ学生ではなく、非常に端正な生活を送る上品な学生であった」と記されている。一高時代に戸塚文卿らとカトリック研究会を組織し、そこから日本最初の聖ヴィンセンシオ・ア・パウロ会(カトリックの慈善団体)や公教青年会が生まれている。暁星での信仰が、一高において実践的な社会活動に広がり始めた時期である。
ケーベル教授との出会い
1909年、東京帝国大学文科大学哲学科に入学。父・清周は「実業に一切関係がない」として哲学科への進学に猛反対したが、社会学も学ぶという条件付きで許可された(当時、社会学科は独立しておらず哲学科社会学専攻だった)。
大学でラファエル・フォン・ケーベルに師事したことは、壮一の学問と信仰の両面において決定的だった。ケーベルはロシア生まれのドイツ人で、カトリック信仰を持つ哲学者。ギリシア哲学から中世スコラ哲学まで幅広い教養を備え、東京帝国大学で約25年にわたって教鞭を執った。壮一はカトリック信者同士として、ケーベルと流暢なフランス語で語り合い、教授から「ビッコの悪魔」「ビッコのおしゃべり」という親しみを込めた綽名で呼ばれた──右足に障害を負いながら、弁舌鮮やかに哲学を論じる壮一の姿が浮かぶ。
九鬼周造──毎日ともに通学した親友
哲学科の同級生に九鬼周造がいた。家が近かったため、二人は毎日ともに大学へ通う仲だった。九鬼は東大哲学科教授・九鬼隆一の子で、母・波津子は元芸者として岡倉天心と関係を持ち、精神を病んで亡くなるという複雑な家庭環境にあった。
壮一の深い信仰に惹かれた九鬼は、キリスト教の洗礼を受けている。さらに九鬼は壮一の姉妹に恋をし、「痛恨の失恋」を経験した。この失恋は、のちに九鬼の哲学的主題──「偶然性」「二元性」「自己と他者の邂逅」──の原体験となったとされる。
二人はやがて対照的な道を歩む。壮一はカトリック信仰の「必然性」──神の摂理、スコラ哲学の論理的秩序──に向かい、九鬼は「偶然性」──西洋哲学の必然性・同一性の体系から「こぼれ落ちるもの」──を追い求めた。同じケーベルのもとで哲学を学びながら、一人は信仰の確実性を、もう一人は存在の不確実性を選んだのである。
1912年、壮一は卒業論文「アウグスティヌスの歴史哲学」をフランス語で執筆し、首席で卒業。大学院に進み、文学部長からは中世スコラ哲学講座の新設と教授就任を打診されたが、これを辞退している。
第3章 学問から信仰へ──司祭への道
七高教授、そして欧州留学
大学院を修了した壮一は、1915年に第七高等学校造士館(鹿児島、現・鹿児島大学)の英語教授となる。東京帝国大学のポストが約束されていたにもかかわらず地方の高等学校を選んだことについては諸説あるが、恩師・岩元禎教授が弟子に「大学を卒業したら地方の高等学校へ行って、黙って十年間勉強しろ」と命じていたことが一因とされる。
七高時代、壮一は学問を続けながら、次第に信仰上の問題を抱え始める。大学院の終わり頃、すでにジャン・ピエール・レイ東京大司教に司祭になりたい旨を相談していた。欧州留学は1914年の予定だったが、父・清周の汚職事件(北浜銀行事件)により延期を余儀なくされた。
1919年、ようやく欧州に向けて出発。パリに到着した翌朝、モンマルトルのサクレ・クール聖堂の奉献式に、山本信次郎大佐の代理として日本を代表して出席するという偶然に恵まれた。暁星で育まれたカトリック人脈が、パリの丘の上でも壮一を導いていたのである。
ルーヴァンでの研鑽と皇太子殿下のベルギー訪問
パリに続いて壮一はベルギーのルーヴァン(ルーヴェン)に移り、1425年創立のルーヴァン・カトリック大学で哲学と神学を学んだ。世界最古のカトリック大学であるこの学府は、第一次世界大戦中にドイツ軍の侵攻で大学図書館をはじめ多くの建物が焼失しており、壮一が学んだ時期はまさにその復興途上にあった。
このルーヴァン滞在中に、壮一は思いがけない大役を担うことになる。1921年(大正10年)6月、裕仁皇太子(のちの昭和天皇)がヨーロッパ歴訪の一環としてベルギーを訪問した際、壮一が現地での案内役を務めたのである。皇太子一行は6月10日にパリを離れてベルギーに向かい、ルーヴァン・カトリック大学を訪問して教員・学生や大司教らの歓迎を受けている。ルーヴァンで哲学と神学を学ぶ日本人カトリック知識人という壮一の存在は、カトリック大学の訪問案内にこれ以上ない適任だった。
暁星で培ったフランス語とカトリックの教養が、皇太子殿下のヨーロッパ体験を支える場面に活かされたことは注目に値する。同じ欧州歴訪においてパリでは暁星出身の山本信次郎がカトリック関連の案内で重要な役割を担っており、暁星ネットワークが皇室の外遊を各地で下支えしていた構図が浮かび上がる。20歳の皇太子にとって、戦禍から復興しつつあるカトリック大学の姿は、のちの昭和天皇の精神形成にどのような印象を残しただろうか。
ロンドン、ローマ──スコラ哲学の本場へ
ルーヴァンでの研鑽を経て、1921年、ロンドンのウェストミンスター大司教区神学校セント・エドマンド・カレッジに入学。翌1922年にはローマに移り、ドミニコ会の神学大学アンジェリクム(現・教皇庁立聖トマス・アクィナス大学)で神学を修めた。トマス・アクィナスの哲学を、その本拠地で学んだのである。
1925年、ヴェネツィアでカトリック司祭に叙階された。叙階を執り行ったのはヴェネツィア総大司教ピエトロ・ラ・フォンテーヌ。同じ頃、末妹・亀代がローマで聖心会の終生誓願を立てている。兄妹がほぼ同時期にヨーロッパで、それぞれの形で神に生涯を捧げる誓いを立てたのである。
帰国後の精力的活動
1925年末に帰国した壮一は、東京の自宅にカトリック研究社を設立し、出版と講座開設を通じてカトリック思想の普及に乗り出した。青年たちの宣教と司牧を担う聖フィリポ寮も開設。知識人を対象としたカトリック入門講座を開き、その内容は代表作『カトリックの信仰』として結実する。
壮一の交友範囲は広大だった。一高・東大時代の同窓である天野貞祐、和辻哲郎に加え、田中耕太郎(のちの最高裁長官)、岩波書店の創業者・岩波茂雄、作家の菊池寛、山本有三、歌人の土屋文明、そして一高・東大の後輩にあたる近衛文麿──壮一が築いた人脈は、学問、文学、政治、出版にわたり、当時の日本の知的世界のほぼ全域を覆っていた。
第4章 神山復生病院──富士の裾野の「天国」
「この仕事をいつまでも外国人に任せてよいのか」
神山復生病院は1889年、パリ外国宣教会のテストウィド神父が御殿場でハンセン病患者と出会い、その救済を志して開設した日本最古のハンセン病療養施設である。フランス人神父が代々院長を務め、患者の治療と信仰的ケアに当たってきた。
壮一の父・清周は、病院から程近い裾野の地に不二農園を開き、農園で働く子どもたちのために温情舎小学校を設立するなど、早くから復生病院の有力な支援者でもあった。壮一は父からこう言われている。
「このような仕事をいつまでも外国人の手にだけお任せしてよいものだろうか」
この言葉は壮一の心に深く刻まれた。前任のフランス人院長レゼー神父の病没後、壮一は1930年、41歳で神山復生病院第6代院長に就任した。復生病院初の日本人院長である。
周囲からは「彼にはもっと本領を発揮すべき場所も仕事もある」「ハンセン病院にはもったいない」という声が上がった。しかし壮一自身は、ためらいもなく、すこぶる自然に院長を拝命したという。
五カ年計画──科学と信仰の両立
壮一は院長就任後ただちに「五カ年計画」を策定し、段階的に医療施設の近代化を進めた。下水道の完備、治療室の新設、病棟の改修。最終的には国立療養所に匹敵する環境を整えた。信仰的救済と医学的治療の両立を掲げ、患者主体の病院経営を実践したのである。
とりわけ壮一が力を注いだのが未感染児童の教育だった。両親がハンセン病で入所し保護者を失った子どもたちを引き取り、教育の場を設けた。温情舎小学校の校長・理事長も兼任していた壮一は、卒業後に不二農園で働ける自立の道も用意した。子どもたちの多くは九州から連れてこられたが、それは「自分の親がハンセン病だったことを知らずに育ってほしい」という壮一の配慮からだった。
「おやじ」と呼ばれた院長
神学者にして哲学者──そのような人物の静的なイメージとは裏腹に、神山での壮一の生活は極めて行動的だった。小型オースチンを自ら運転し、御殿場街道を砂埃を上げながら疾走して沼津、箱根、時には東京まで出かけた。昭和12年のことである。当時の日本で自家用車を運転する院長は珍しかった。
患者たちは壮一を「おやじ」と呼んで慕った。一緒に野球をし、運動会のパン食い競争に参加し、復活祭には仮装をしてリヤカーにぶどう酒や卵を積み、先頭に立って病室を回った。復生病院の90年誌には、療養中の患者がこう詠んでいる。
日本よりも世界にその名高かりき新スコラ学派の岩下神父
チンドン屋の鉦打ち太鼓鳴らしつつ神父来ませり仮装たくみに
この二首に、壮一という人格の「静と動、理知と情意、厳格とユーモア」が凝縮されている。世界的なスコラ哲学者が、チンドン屋の仮装で患者の病室を訪ね歩く──それが神山の日常だった。
第5章 著作と思想──「必然性」の哲学
『中世哲学思想史研究』
壮一の学問的業績の中核をなすのは、日本における中世スコラ哲学研究の確立である。代表的著作『中世哲学思想史研究』(岩波書店、1942年刊、遺著)は、アウグスティヌスからトマス・アクィナスに至る中世哲学の流れを、原典に即して体系的に論じた日本初の本格的研究書として、戦後も繰り返し再版された。
卒業論文「アウグスティヌスの歴史哲学」に始まり、『アウグスチヌス 神の国』(岩波書店、1935年)など、壮一はアウグスティヌスとトマス・アクィナスの二大巨人を軸に、中世ヨーロッパの知的遺産を日本語で読める形にした最初の人物だった。
『カトリックの信仰』
もう一つの代表作が『カトリックの信仰』である。カトリック教会の教義を公教要理(カテキズム)に沿って解説した講解書であり、帰国後の入門講座の成果が凝縮されている。壮一の没後に刊行され、講談社学術文庫、ちくま学芸文庫と版を重ね、日本語で書かれたカトリック入門書の古典的地位を占めている。
九鬼周造との対比──必然性と偶然性
壮一の思想を考えるうえで興味深いのは、一高・東大時代の親友・九鬼周造との対比である。
壮一が追求したのは「必然性」の哲学だった。神の摂理による秩序、スコラ哲学の論理的体系、カトリック信仰の確実性。存在のすべてに神の意志が貫かれているという確信のもとに、壮一は中世哲学を研究し、信仰を生きた。
一方、九鬼が追い求めたのは「偶然性」の哲学だった。8年間の欧州滞在でリッケルト、ベルクソン、ハイデガーに学んだ九鬼は、西洋哲学の必然性・同一性の体系から「こぼれ落ちるもの」に目を向け、主著『偶然性の問題』(1935年)で存在における偶然の意味を問い直した。
同じケーベル教授のもとで哲学を学び、毎朝ともに通学した二人。一人は信仰の「必然」に、もう一人は存在の「偶然」に到達した。その分岐点に、壮一の揺るぎない信仰と、九鬼が壮一の姉妹に失恋した経験が影を落としていたとすれば、哲学とは結局、生きることの別名に他ならない。
第6章 死と遺産
中国視察中の発病と死
1940年、壮一は神山復生病院院長を辞任し、興亜院の要請を受けて華北地方の教会事情を視察する旅に出た。しかし旅行中に発病し、帰国直後の12月3日、神山復生病院で死去した。享年51歳。
壮一の墓は三カ所にある。カトリック府中墓地の東京大司教区司祭共同墓地、不二聖心女子学院内の岩下家墓所、そして神山復生病院内の墓地にも分骨されている。学者として、司祭として、そして病院長として──三つの墓所は、壮一の人生の三つの側面を映し出している。
親友・九鬼周造の追悼
壮一の死の翌年、1941年5月、九鬼周造も腹膜炎で世を去った。享年53歳。九鬼はその晩年に「岩下壮一君の思い出」と題する追悼文を書いている。遺著となった随筆集『をりにふれて』(岩波書店、1941年)に収められたこの一篇は、一高時代から東大哲学科時代にかけての二人の交友を回想するものだった。必然と偶然を追い求めた二人の哲学者は、相次いで世を去ったのである。
暁星ネットワークのなかの岩下壮一
岩下壮一を暁星の卒業生ネットワークのなかに位置づけると、その存在の特異さが際立つ。
暁星のフランス語・カトリック教育は、外交官(寺崎英成、松井明、ドーマン)、海軍軍人(山本信次郎)、画家(藤田嗣治)、さらには革命家(李漢俊)まで、多様な進路を切り拓いた。壮一はそのなかで、暁星の教育理念に最も「忠実」に生きた人物だったと言える。フランス語の能力、カトリック信仰、そして社会の最も弱い立場にある人々への奉仕──暁星が教えたすべてを、壮一はそのまま人生にした。
山本信次郎が軍服を着たまま教皇と天皇を結び、寺崎英成と松井明が外交の最前線で天皇とマッカーサーを繋いだように、壮一は司祭平服(スータン)を着て、中世ヨーロッパの知的遺産と富士山麓のハンセン病患者のあいだに橋を架けた。
暁星が育てた「架け橋」の群像のなかで、岩下壮一が架けた橋は、最も静かで、最も深い。
岩下壮一 略年譜
| 年 | 事項 |
|---|---|
| 1889年 | 東京・京橋区(現銀座)に生まれる。父は実業家・岩下清周、母・幽香子はカトリック信者 |
| 1901年 | 暁星中学校で受洗(洗礼名フランシスコ・ザヴィエル、12歳) |
| 1906年頃 | 第一高等学校入学。天野貞祐、九鬼周造、和辻哲郎らと交友 |
| 1909年 | 東京帝国大学文科大学哲学科入学。ケーベル教授に師事 |
| 1912年 | 卒業論文「アウグスティヌスの歴史哲学」(仏語)で首席卒業。大学院進学 |
| 1915年 | 第七高等学校造士館教授(英語)に就任 |
| 1919年 | 欧州留学に出発。パリ、サクレ・クール聖堂奉献式に山本信次郎代理として出席。その後ルーヴァン・カトリック大学で哲学・神学を学ぶ |
| 1921年 | 裕仁皇太子のベルギー訪問(6月)でルーヴァン案内を務める。ロンドン、セント・エドマンド・カレッジ入学 |
| 1922年 | ローマ、アンジェリクム(ドミニコ会神学大学)に移る |
| 1925年 | ヴェネツィアでカトリック司祭に叙階。帰国後、カトリック研究社・聖フィリポ寮を設立 |
| 1930年 | 神山復生病院第6代院長に就任(復生病院初の日本人院長) |
| 1935年 | 『アウグスチヌス 神の国』(岩波書店)刊行 |
| 1939年 | 神山復生病院創立50周年、在院者135名のピーク |
| 1940年 | 院長辞任、興亜院の要請で華北視察。旅行中発病、帰国後の12月3日、神山復生病院にて逝去(享年51) |
| 1941年 | 遺著『信仰の遺産』(岩波書店)刊行 |
| 1942年 | 遺著『中世哲学思想史研究』(岩波書店)刊行 |
主要参考文献
- 小林珍雄『岩下神父の生涯』(岩下壮一全集 別冊、中央出版社、1961年)
- 重兼芳子『闇をてらす足おと──岩下壮一と神山復生病院物語』(春秋社、1986年)
- 小坂井澄『人間の分際 神父・岩下壮一』(聖母の騎士社・聖母文庫、1996年)
- 輪倉一広『司祭平服と癩菌──岩下壮一の生涯と救癩思想』(吉田書店、2015年)
- 加藤和哉「岩下壮一留学交遊録(1)」『宗教と文化』40号(聖心女子大学キリスト教文化研究所紀要、2024年)
- 岩下壮一『カトリックの信仰』(ちくま学芸文庫、2015年)
- 岩下壮一『信仰の遺産』(山本芳久校訂・稲垣良典解説、岩波文庫、2015年)
- 豊下楢彦『昭和天皇・マッカーサー会見』(岩波現代文庫、2008年)
- 神山復生病院・復生記念館展示資料
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