上智大生靖国神社参拝拒否事件。カトリック学校の存続危機解決に奔走した山本信次郎とは?

目次
はじめに──フランス国歌を歌っていた学校
東京・千代田区九段。靖国神社からわずか数百メートルの場所に、フランス系カトリック男子校・暁星学園がある。1888年(明治21年)にフランスのカトリック修道会マリア会の宣教師5名によって創立されたこの学校は、フランス語教育を特色とし、7つボタンの制服はフランス海軍士官の軍服をモデルにしている。校内ではフランス国歌「ラ・マルセイエーズ」が歌われ、卒業生にはフランスのバカロレアと同等の資格が与えられた。
しかし1930年代、軍国主義が台頭する日本において、「敵国」フランスの修道会が運営する学校、そしてカトリック教会そのものが、存亡の危機に瀕する事件が起きる。その解決に中心的な役割を果たしたのが、暁星出身の海軍少将・山本信次郎(1877〜1942)だった。
第1章 山本信次郎──暁星が育てた「軍服の修道士」
片瀬の旧家からカトリック校へ
山本信次郎は1877年(明治10年)12月22日、相模国鎌倉郡川口村(現在の藤沢市片瀬)の旧家に生まれた。父・庄太郎は鎌倉郡長や県会議員を務める名士で、寺の檀家総代でもあった。
信次郎の人生を決定づけたのは、父がマリア会に持ち家を別荘として貸していたという偶然の縁だった。この関係から、小学校卒業後、マリア会が運営する暁星中学校に入学する。当時はキリスト教に対する敵視が根強く、信次郎自身も当初はキリスト教を侮蔑していた。しかし、マリア会の修道士たちと日々を過ごすうちに、次第にキリスト教を理解するようになる。
三度の説得──洗礼と軍人への道
カトリックの教えを学びたいと父に許可を求めたが、檀家総代を務める仏教徒の父は大反対した。しかし信次郎は諦めず、三度目の説得でようやく許可を得る。校長のアルフォンス・ヘンリック神父のもとで要理(カテキズム)を学び、1893年(明治26年)12月24日、クリスマス前夜に洗礼を受けた。洗礼名は「ステファノ」。16歳のことだった。
卒業を前に進路に悩む信次郎に、ヘンリック神父は「軍人を志しなさい」と勧めた。カトリックの神父が軍人を勧める――この一見矛盾した助言が、のちに「天皇と教皇の架け橋」と呼ばれる人物を生み出すことになる。
旗艦「三笠」とフランス語
1898年、海軍兵学校を卒業(26期、59名中17番)。日露戦争では日本海海戦に旗艦「三笠」の分隊長として参戦した。注目すべきは、秋山真之参謀とロシアのネボガトフ少将との降伏交渉において、信次郎がフランス語の通訳を務めたことである。暁星で学んだフランス語が、日本近代史の転換点で活かされた瞬間だった。
昭和天皇の側近へ
1909年に海軍大学校を卒業後、東郷平八郎附属副官、イタリア大使館付武官などを歴任。1919年から1937年という長期にわたり、東宮御学問所御用掛として皇太子時代の昭和天皇に仕えた。
1921年、昭和天皇(当時皇太子)のヨーロッパ5カ国訪問に随行した信次郎は、ローマ教皇ベネディクトゥス15世との会見実現に尽力する。天皇(皇太子)と教皇の出会い──それは、のちに日本とバチカンの関係が試練にさらされた時、大きな意味を持つことになる。
第2章 上智大生靖国神社参拝拒否事件
1932年5月5日──発端
1932年(昭和7年)5月5日。上智大学予科に配属されていた陸軍の北原一視大佐が、学生60名を引率して靖国神社を参拝した。このとき、カトリック信者の学生3名が本殿での敬礼を行わなかった。
事の背景には、当時の上智大学学長ヘルマン・ホフマン神父が、靖国神社・伊勢神宮・明治神宮を含む神社参拝を禁じていたことがある。一神教であるカトリックにとって、唯一神以外の存在への礼拝は信仰の根幹に関わる問題だった。学生たちはこの方針に従ったのである。
配属将校の引き揚げ──上智と暁星の危機
この事態を問題視した陸軍は、配属将校の引き揚げを示唆した。当時、学校教練を履修すると兵役が10か月短縮される制度があり、配属将校の引き揚げは学生募集に致命的な打撃を与える。つまり、学校経営の死活問題だった。
さらに深刻だったのは、この問題が上智大学だけに留まらなかったことである。同年12月3日付の『東京朝日新聞』夕刊は「上智大、暁星中の配属将校引揚げ」と報じている。靖国神社からわずかの距離にある暁星中学校からも、同じカトリック系学校として連帯的に配属将校が引き揚げられたのである。
軍との対立は、大学の廃止やカトリック教会全体への弾圧につながりかねない。日本カトリック教会は、まさに存亡の危機に立たされた。
五・一五事件の影
事件の深刻さを増幅させたのは、時代の空気だった。同じ1932年5月15日には五・一五事件が発生し、犬養毅首相が暗殺されている。政府内における軍部の力は急速に増大していた。日中関係の緊張のなかで靖国神社への国民的関心はかつてなく高まり、「カトリック系大学の学生が靖国神社への敬礼を拒否した」という事実は、軍部にとって格好の攻撃材料となった。
第3章 山本信次郎の奔走
天皇の側近、教会の守護者
この危機的状況において、山本信次郎は独自の立場から解決に動いた。
信次郎は海軍少将であり、1919年以来、東宮御学問所御用掛として昭和天皇の側近を務めていた。同時にカトリック信者として、公教青年会の設立や「カトリック・タイムズ」(カトリック新聞の前身)の創刊など、日本カトリック教会の発展に深く関わっていた。
つまり信次郎は、軍人として国家体制の内側にいると同時に、カトリック信者として教会の立場も代弁できる、ほとんど唯一の人物だったのである。
信次郎は政府・軍部とカトリック教会の仲介を務め、神社参拝問題の解決に奔走した。海軍少将という肩書き、昭和天皇の側近という立場、そして1921年の皇太子ヨーロッパ訪問で教皇との会見を実現させた実績──これらすべてが、信次郎にしかできない調停を可能にした。
文部省とカトリック教会の妥協
数か月にわたる水面下の交渉の末、日本カトリック教会の東京大司教シャンボンは1932年9月22日付の書簡で、文部大臣・鳩山一郎に靖国参拝の意義を照会した。
9月30日付の文部次官・粟屋謙からの回答は、こう述べていた。──学生生徒を神社に参拝させるのは教育上の理由に基づくものであり、その場合に求められる敬礼は愛国心と忠誠を表すものにほかならない、と。
カトリック教会はこの回答をもって「靖国参拝は宗教行為ではなく愛国的行為である」と解釈し、神社参拝を許容することで事態の収拾を図った。
報道と世論の暴風
しかし事態は、ここで収まらなかった。翌10月1日、報知新聞がこの事件を報道すると、世間からカトリック教会への非難が一気に強まった。5か月間沈黙していたメディアが突如騒ぎ出した背景には、陸軍と文部省の対立もあったとされる。
追い詰められたカトリック教会は、12月1日に『カトリック的国家観』を出版し、カトリック信者にも愛国・忠君のための神社参拝が許容されることを公式に宣言した。学長以下、神父、学生に至るまで靖国神社へ参拝し、配属将校は上智大学と暁星に復帰した。
第4章 バチカンの追認と暁星校歌の誕生
「祖国に対する信者のつとめ」(1936年)
日本カトリック教会の判断は、4年後にバチカンによって正式に追認された。1936年5月26日、教皇庁布教聖省は日本の教会宛に訓令「祖国に対する信者のつとめ」を発出。神社参拝は愛国心と忠誠の表現であり宗教的行為ではないとの政府見解を受け入れ、カトリック信者の参加を正式に許可した。
信次郎はバチカンへの働きかけにおいても中心的な役割を担った。南太平洋の宣教師問題について教皇庁への陳情を行うなど、日本政府とバチカンの間を取り持つ調停者として活動を続けた。1921年に自らが実現させた皇太子と教皇の会見という「前例」が、バチカンとの交渉において大きな力を持ったことは想像に難くない。
暁星校歌──「ラ・マルセイエーズ」から「大君の国」へ
注目すべきは、このバチカン訓令と同じ1936年に、暁星が校歌を制定したことである。作詞は北原白秋、作曲は山田耕筰。当時の日本を代表する芸術家コンビへの依頼だった。
北原白秋が作詞した校歌は全国100校以上に及び、その9割近くが山田耕筰とのコンビ作だったとされる。彼らは依頼を受けた学校を訪問して雰囲気を取材し、キリスト教系の学校には讃美歌を意識した作品を提供するなど、その学校に合った作詞を心がけていたことが知られている。
それまでフランス国歌「ラ・マルセイエーズ」を歌っていたフランス系カトリック校が、日本を代表する芸術家に日本語の校歌を依頼する──それ自体が、靖国事件後のカトリック学校の姿勢転換を象徴していた。
歌詞は3番まであった。1番と2番にはカトリック的な「黎明」「光」「平和」「信(まこと)」という普遍的価値が込められている。しかし3番には「栄あり東の 大君の国」──天皇への忠誠を示す言葉が入っていた。北原白秋は、カトリックの信仰と国体への忠誠を一つの歌の中に同居させたのである。
戦後、この3番は「軍国主義的な内容」として歌われなくなり、現在の暁星では1番と2番のみが歌い継がれている。
第5章 暁星が紡いだ人脈の力
山本家と岩下家──信仰と姻戚のネットワーク
山本信次郎が靖国事件の調停に動けた背景には、暁星を中心とする人脈の厚みがあった。
信次郎の弟・山本三郎は暁星時代の同級生で、のちに桂太郎首相の秘書官となった。そしてこの三郎が結婚したのが、暁星出身のカトリック司祭・岩下壮一の妹である。
岩下壮一(1889〜1940)は「大正から昭和初期の日本カトリック教会の精神的指導者」と呼ばれた人物で、公教青年会の創設、月刊誌「カトリック」の創刊など、日本カトリック教会の知的基盤を築いた。さらに1930年からは神山復生病院の院長として、ハンセン病患者の救済に生涯を捧げた。
岩下壮一の洗礼の代父は、暁星の同級生だった山本三郎であり、三郎はのちに壮一の妹と結婚している。つまり山本信次郎と岩下壮一は、弟・妹の結婚を通じて義兄弟のような関係にあった。
暁星という一つの学校が、軍人(山本信次郎)、聖職者(岩下壮一)、そして政治家の秘書官(山本三郎)を輩出し、信仰と婚姻の絆で結びつけていた。この人脈こそが、カトリック教会と日本の国家体制の間で調停を可能にした基盤だったのである。
戦時下のカトリック学校
靖国事件は「解決」したものの、カトリック学校への圧力は戦争の激化とともに強まった。
上智大学では1943年に出陣学徒壮行式が行われ、翌1944年には「敵性宗教」の大学として興亜工業大学(現・千葉工業大学)との合併圧力にさらされた。暁星もまた、疎開先の軽井沢・箱根・山梨で授業を続けながら、フランス人修道士が運営する「敵国」の学校として、存続の危機と向き合い続けた。
おわりに──靖国のとなりの暁星
暁星学園は今も、靖国神社から徒歩数分の千代田区富士見にある。7つボタンの制服を着た生徒たちは、フランス語の授業を受け、北原白秋と山田耕筰による校歌を歌い続けている──ただし、「大君の国」の3番は除いて。
1932年の靖国事件は、カトリックの信仰と日本の国家体制の衝突という、明治以来の根本的な緊張を表面化させた事件だった。その解決に奔走した山本信次郎は、暁星で洗礼を受けたカトリック信者であり、旗艦「三笠」で日本海海戦を戦った海軍軍人であり、昭和天皇の側近であり、教皇との会見を実現させた「天皇と法王の架け橋」だった。
信次郎の生涯は、近代日本においてカトリックの信仰を生きることの複雑さと豊かさを体現している。そしてその出発点は、父がマリア会に家を貸したという小さな縁から始まった暁星中学校での日々にあった。
なお、戦後のカトリック教会はこの時代の選択を批判的に総括している。日本カトリック司教協議会は、1936年のバチカン訓令について「国家神道が解体され、信教の自由が保障された日本国憲法のもとでは適用できない」との立場を示している。西山俊彦神父は「日本のカトリック教会は、施設の物的安全と引き換えに信者の魂を売り渡し、天皇制への屈服と神社崇拝を通じて侵略戦争に協力した」と厳しく指摘した。
山本信次郎の奔走は、カトリック学校を「物理的に」救った。しかしその代償として教会が支払ったものの重さを、私たちは歴史から学ばなければならない。
参考文献
- 徳安茂『軍服の修道士 山本信次郎 天皇と法王の架け橋』(平凡社)
- 田口芳五郎『カトリック的國家觀』(カトリック中央出版部、1932年)
- カトリック中央協議会編『歴史から何を学ぶか──戦前・戦中と戦後のカトリック教会の立場』
- 西山俊彦『カトリック教会の戦争責任』(サンパウロ、2000年)
- 暁星学園百年誌
テックジム東京本校では、情報科目の受験対策指導もご用意しております。
■らくらくPython塾 – 読むだけでマスター
共通テスト「情報I」対策解説講座
実践で学ぶPython速習講座
■テックジム東京本校
格安のプログラミングスクールといえば「テックジム」。
講義動画なし、教科書なし。「進捗管理とコーチング」で効率学習。
対面型でより早くスキル獲得、月額2万円のプログラミングスクールです。
情報科目の受験対策指導もご用意しております。





