日米戦争の裏で奔走した暁星出身の外交官

ドゥーマン、寺崎、松井――「暁星」が結ぶ三つの運命

太平洋戦争をめぐる日米外交の舞台裏に、ある学校の名前が繰り返し現れる。東京・九段にあるカトリックの名門校、暁星である。1888年にフランス人マリアニスト(マリア会)宣教師によって創立されたこの学校から、日米関係の最も困難な局面に深く関わった三人の外交官が巣立った。

アメリカ側からユジーン・ドゥーマン(1890–1969)、日本側から寺崎英成(1900–1951)と松井明(1908–1994)。立場は異なれど、三人はいずれも日米の架け橋となり、開戦の回避、終戦の実現、そして戦後処理という歴史の転換点で奔走した。彼らに共通するのは暁星で培われた語学力と国際感覚、そして「戦争を終わらせる」という一点への執念であった。


ユジーン・ドゥーマン――大阪生まれの「最も日本を知るアメリカ人」

宣教師の子として

ユジーン・ホフマン・ドゥーマン(Eugene Hoffman Dooman)は1890年3月25日、大阪で生まれた。父アイザックはイランのウルミア出身のアッシリア系キリスト教徒で、米国聖公会の宣教師として来日していた。母グレイスも同じくウルミアの出身である。日本で生まれ育ったドゥーマンにとって、日本語は文字通りの母語であった。

幼少期を日本で過ごしたドゥーマンは、暁星小学校に在籍したとされる(鳥巣建之助『特攻と原爆の戦い――「聖断」への長い道』)。暁星はフランス・カトリックの学校であり、ドゥーマンの父は英国国教会(聖公会)系であったが、当時の日本で西洋式の教育を受けられる機会は限られており、宗派を超えた選択であったと考えられる。1903年に渡米し、ニューヨークのトリニティ・スクール、コロンビア大学鉱山学校を経てトリニティ・カレッジを1911年に卒業。翌年、国務省に学生通訳として入省した。

駐日大使館の「ナンバー2」

外交官となったドゥーマンは、そのキャリアの大半を日本で過ごした。1937年から1941年にかけては、在東京アメリカ大使館の参事官として、ジョセフ・グルー大使に次ぐナンバー2の地位にあった。日本語を母語とし、日本の政治・文化・社会を肌で理解するドゥーマンは、ワシントンの本国政府にとって代え難い日本専門家であった。

1941年2月14日、ドゥーマンは大橋忠一外務次官に対し、ルーズベルト大統領の警告を直接伝達した。日本がシンガポールを攻撃すれば、それはアメリカとの戦争を意味する、と。しかし歴史の歯車は止まらなかった。真珠湾攻撃後、ドゥーマンは大使館敷地内に抑留され、1942年にスウェーデンの交換船グリプスホルム号で帰国する。

ポツダム宣言の起草者

帰国後のドゥーマンが全力を注いだのは、戦争の終結であった。1945年、元上司のグルー国務長官代理のもとで、ジェイムズ・ダン国務次官補の特別補佐官となり、日本の降伏条件をめぐる政策立案に深く関与した。

ドゥーマンはポツダム宣言の起草者の一人である。日本を知り尽くした彼は、天皇制の存続なくして日本の降伏はありえないと確信していた。宣言の草案から天皇制廃止の条項が除かれた背景には、ドゥーマンとグルーの強い働きかけがあった。同時に、ドゥーマンは日本への原子爆弾使用に明確に反対した。

戦後、1960年に日本政府は勲二等旭日重光章を授与し、「日米関係の発展と新しい日本の建設への長年の功績」を讃えた。1969年、コネティカット州リッチフィールドで死去。その文書はスタンフォード大学フーバー研究所に保管されている。


寺崎英成――日米の狭間を生きた外交官

暁星から外務省へ

寺崎英成(てらさき ひでなり)は1900年12月21日、貿易商・寺崎三郎の二男として神奈川県に生まれた。兄の寺崎太郎も後に外交官となり、アメリカ局長を務めている。

英成は暁星中学に学び、1919年に卒業。旧制一高を経て東京帝国大学法学部に進んだが中退し、1927年に外務省に入省した。暁星で叩き込まれたフランス語に加え、英語にも堪能であった寺崎は、国際舞台で活躍する素地を早くから備えていた。

ワシントンの日米交渉

1931年、ワシントンD.C.の日本大使館に勤務中、アメリカ人女性グエンドレン・ハロルドと結婚。二人の間には娘マリコが生まれた。日米の血を引くこの家族の運命は、やがて両国の関係悪化と共に大きく翻弄されることになる。

上海、ハバナ、北京などでの在外勤務を経て、1941年、寺崎は再びワシントンの日本大使館に赴任した。情報担当の一等書記官として、野村吉三郎・来栖三郎両大使を補佐し、開戦回避のための日米交渉に奔走した。しかし交渉は実を結ばず、日米は開戦に至る。アメリカ人の妻と幼い娘を持つ寺崎にとって、この開戦は個人的にも深い苦悩であった。交換船で日本に帰国した後も、日米の狭間で引き裂かれる思いは続いた。

昭和天皇独白録の記録者

戦後、寺崎は宮内省御用掛となり、昭和天皇の通訳を務めた。そして1946年、歴史的な文書の作成に立ち会うことになる。

昭和天皇独白録――1946年3月から4月にかけて、昭和天皇が側近5名に対し、満州事変から終戦に至るまでの経緯を語った記録である。寺崎はこの記録の取りまとめ役を担った。東京裁判を控え、天皇の戦争責任が問われかねない緊迫した情勢の中で作成されたこの文書は、後に昭和史研究の重要な一次資料となる。

しかし寺崎自身がこの文書の歴史的意義を見届けることはなかった。1948年に病を得て実務を離れ、1951年8月21日、50歳の若さで世を去った。

独白録は寺崎の遺品として長く眠り続けた。アメリカに帰国していた妻グエンと娘マリコは日本語が読めず、文書はしまい込まれたままであった。約30年後、マリコの息子が遺品を整理する過程で再発見され、1990年に『文藝春秋』で公開されると、100万部を超える大反響を呼んだ。

寺崎一家の物語は、1980年に柳田邦男のノンフィクション『マリコ』として刊行され、翌年にはNHKでドラマ化もされている。日米の狭間に立った外交官の姿は、多くの日本人の胸を打った。


松井明――天皇とマッカーサーの対話を記録した男

パリに生まれ、暁星に学ぶ

松井明(まつい あきら)は1908年1月6日、外交官・男爵の松井慶四郎の長男として、父の赴任先パリで生まれた。父慶四郎は後に外務大臣を務めた大物外交官であり、明は外交官の子として国際的な環境の中で育った。

帰国後、暁星中学に進み、1925年に卒業。旧制東京高校を経て東京大学法学部を卒業し、1931年に外務省に入省した。ドゥーマンが暁星小学校に在籍し、寺崎が暁星中学を1919年に卒業してから6年後のことである。三人が暁星で直接交わった可能性は低いが、同じ校風のもとで育った外交官が、日米関係という同じ舞台に立つことになったのは、単なる偶然とは思えない符合である。

寺崎の後を継いで

松井は内閣情報局情報官、調査局長などを歴任した後、1949年7月から1953年3月まで昭和天皇の通訳を務めた。これは病に倒れた寺崎英成の後を引き継ぐ形であった。暁星の先輩から後輩へ、天皇の通訳というきわめて重要な役目が受け渡されたのである。

松井が通訳を務めた時期は、占領末期から講和条約の締結へと向かう転換期にあたる。昭和天皇とマッカーサーの会見5回(第7回から第11回)、後任のリッジウェイとの会見7回の通訳を担当し、さらにこれらの会見内容を詳細に記録した。1951年にはサンフランシスコ講和会議に吉田茂首相の秘書官として随行してもいる。

「松井文書」の運命

松井が残した記録、いわゆる「松井文書」は、昭和天皇と占領軍最高司令官との対話の実相を伝える第一級の資料である。しかしその公開は容易ではなかった。

1980年、松井はこれらの記録を出版する意向でまとめ上げ、翌年に侍従長の入江相政にコピーを渡して出版を相談した。しかし入江をはじめ宮内庁幹部は全員反対し、出版は断念された。天皇の肉声に近い記録が世に出ることへの慎重論が勝ったのである。

1989年の昭和天皇崩御後、松井はフランス語で概要を出版。1994年には産経新聞に一部が掲載され、2002年には朝日新聞が写しの概要を報道した。しかし著作権上の制約から、全文公開は実現していない。松井の著作権は没後70年にあたる2064年まで存続するため、完全な形での公開にはまだ長い年月を要する。

松井はその後、駐フランス公使、駐セイロン大使を経て、駐スウェーデン大使兼アイスランド公使を務めた。スウェーデン在任中には、谷崎潤一郎や川端康成のノーベル文学賞受賞に向けて積極的なロビー活動を展開した。1968年の川端康成のノーベル文学賞受賞の陰には、松井の地道な働きかけがあったとされる。1994年4月29日に死去。


暁星が結んだ糸

三人の経歴を並べてみると、不思議な連環が浮かび上がる。

ドゥーマンは暁星小学校で日本の教育に触れたアメリカ側の外交官として、日米開戦の回避とポツダム宣言の起草に尽力した。寺崎は暁星中学で国際感覚を養い、ワシントンで日米交渉に奔走した末、戦後は昭和天皇独白録の記録者となった。松井は寺崎と同じ暁星中学の後輩として、寺崎の後を継いで天皇の通訳を務め、占領期の日米対話を記録に残した。

三人はそれぞれ日米の異なる立場にありながら、いずれも「言葉の力」を武器に歴史の渦中で闘った。暁星という学校が育んだ語学力と国際的な視野が、彼らを日米関係の最前線へと導いたのは間違いない。

開戦から終戦、そして戦後処理に至る長い道のりの中で、暁星出身の三人の外交官が果たした役割は、教科書に大書されることこそないが、歴史の裏面を確かに支えていた。彼らの物語は、外交とは結局のところ「人」であるという真実を、静かに物語っている。


主要参考文献

  • 鳥巣建之助『特攻と原爆の戦い――「聖断」への長い道』(世界大戦文庫スペシャル、1986年)
  • 『昭和天皇独白録・寺崎英成御用掛日記』(文藝春秋、1991年)
  • 柳田邦男『マリコ』(1980年)
  • Peter A. Adams, Eugene H. Dooman, “A Penny a Dozen Expert” (University of Maryland, Master’s thesis, 1976)
  • Eugene Dooman Archives, Hoover Institution, Stanford University

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