戦犯で日本画壇を追放された世界的画家「藤田嗣治」の生い立ち

「私が日本を捨てたのではない。日本に捨てられたのだ」

1949年3月、一人の画家が羽田空港から飛び立った。誰にも出発の日時を告げず、友人への別れの挨拶もなく。藤田嗣治、62歳。エコール・ド・パリの寵児として世界の画壇に君臨し、戦時中は日本を代表する戦争記録画家として活動した男は、戦後の日本から「戦争協力者」の烙印を押され、事実上の追放を受けた。

以後、藤田は二度と日本の土を踏まなかった。フランス国籍を取得して日本国籍を抹消し、カトリックの洗礼を受けて「レオナール・フジタ」と名を変え、自ら設計した礼拝堂に埋葬された。

この画家の数奇な運命の原点は、明治の東京・牛込にある。そしてその生い立ちをたどると、ひそかに通った暁星学校の夜学が、人生のすべてを方向づけていたことに気づかされる。


第1章 陸軍軍医総監の末息子

牛込新小川町の医者の家

藤田嗣治は1886年(明治19年)11月27日、東京府牛込区新小川町に生まれた。4人きょうだいの末っ子である。

父・藤田嗣章は、大学東校(東京大学医学部の前身)で医学を学んだのち、軍医として台湾や朝鮮の衛生行政に携わり、やがて森鷗外の後任として陸軍軍医総監──陸軍軍医の最高位(中将相当)──にまで昇進した人物だった。

藤田家はいわばエリート軍人一族である。兄の嗣雄は朝鮮総督府や陸軍省に在職した法制学者で、のちに上智大学教授となり、陸軍大将・児玉源太郎の四女と結婚した。義兄には、父の元部下でのちに陸軍軍医総監となった中村緑野がいる(中村は詩人・中原中也の名づけ親としても知られる)。従兄には劇作家の小山内薫、甥には舞踊評論家の蘆原英了と建築家の蘆原義信がいた。

画家になりたい──父への手紙

この厳格な軍人の家に生まれた末息子は、幼い頃から絵を描くことに夢中だった。1893年、東京高等師範学校附属小学校に入学。1900年、14歳のときにはパリ万国博覧会に日本の中学生代表の一人に選ばれて水彩画を出品している。

父は息子に医者か軍人になることを望んでいた。しかし嗣治は、同じ家に住む父に手紙を郵送するという奇妙な方法で、画家になりたいという願いを伝えた。父は黙って返書を手渡した。封筒の中には言葉はなく、ただ十円札が五枚入っていた。嗣治はそれで油絵具一式を買い、はじめて油絵を描いた。


第2章 暁星学校の夜学──「ひそかに」学んだフランス語

九段のカトリック校へ

藤田嗣治の生涯を決定づけた、ほとんど知られていない事実がある。

中学に通うかたわら、嗣治はひそかに暁星学校の夜間部に通い、フランス語を学んでいたのである。このことは藤田自身が著書『腕一本・巴里の横顔』(講談社文芸文庫)に収録された未発表の自伝的ノート「私の生い立ち」の中で記している。

暁星学校は1888年にフランスのカトリック修道会マリア会によって創立された学校で、牛込の藤田家からは九段の校舎まで徒歩圏内だった。当時の日本でフランス語を本格的に学べる場所は極めて限られており、暁星はその最も優れた教育機関の一つだった。

「ひそかに」という言葉が重要である。軍医総監の父は息子に医者か軍人を望んでいた。画家になる許可をようやく得た嗣治が、さらにフランスへの渡航を視野に入れてフランス語の習得を始めていたことを、父には知られたくなかったのだろう。十代の少年がすでにパリを夢見て、密かにその準備を進めていた。

暁星が藤田に与えたもの

暁星の夜学で藤田が得たものは、単なる語学力だけではなかったはずである。

暁星はカトリック・ミッションスクールであり、フランス語の授業はフランス人修道士によって行われていた。フランス語を学ぶということは、フランスの文化に触れるということであり、カトリック的な世界観の一端に触れるということでもあった。

この経験は、藤田の人生に二重の伏線を敷いた。

第一に、フランス語の素養がパリでの成功を支えたことである。1913年に26歳で渡仏した藤田は、パリのモンパルナスで比較的早くフランス社会に溶け込み、モディリアーニ、スーティン、ピカソ、コクトーらと交友を結んでいる。「FouFou(お調子者)」と呼ばれるほどフランス人の間で人気を博した背景には、暁星で培ったフランス語の基礎があった。

第二に、カトリック的環境との最初の接触が、晩年の改宗につながった可能性である。藤田は73歳でカトリックの洗礼を受け、「レオナール」(レオナルド・ダ・ヴィンチのフランス語読み)という洗礼名を得た。そして自らの手で礼拝堂を設計し、そこに埋葬された。暁星の夜学で十代の感受性豊かな時期にカトリックの空気に触れた記憶が、半世紀以上の歳月を経て、晩年の信仰への道を静かに準備していたのかもしれない。

暁星ネットワークの中の藤田

興味深いことに、藤田が暁星の夜学に通っていた時期、暁星の正規の生徒には、のちに日本とカトリック教会の運命を左右する人物たちがいた。

山本信次郎(1877年生まれ)は暁星中学校を卒業後、海軍に進み、日露戦争の日本海海戦では旗艦「三笠」の分隊長として、暁星で学んだフランス語を使ってロシア軍の降伏交渉の通訳を務めた。のちに海軍少将となり、昭和天皇の側近として、1932年の上智大生靖国神社参拝拒否事件でカトリック学校の存続危機を救う調停者となった。

岩下壮一(1889年生まれ)は暁星の同級生である山本三郎(信次郎の弟)の親友で、のちにカトリック司祭となり、日本カトリック教会の精神的指導者と仰がれた。

藤田は暁星の正規の卒業生ではないが、夜学生として同じ校舎の空気を吸い、同じフランス人修道士からフランス語を学んでいた。暁星という場が近代日本に生み出した「フランスとカトリック」の人脈の中に、世界的画家の原点もまた含まれていたのである。


第3章 パリの寵児──「乳白色の肌」

絵を燃やして暖を取る日々

1905年、森鷗外の勧めで東京美術学校(現・東京藝術大学)西洋画科に入学。しかし当時の日本画壇は、フランス帰りの黒田清輝が支配する印象派全盛の時代であり、藤田の作風は評価されなかった。卒業制作の自画像は黒を多用し、挑発的な表情を描いたもので、黒田が忌み嫌う画風そのものだった。

1913年、26歳で渡仏。暁星の夜学で密かに準備してきたフランス語を携えて、パリのモンパルナスに居を構えた。しかし翌年に第一次世界大戦が勃発し、日本からの送金が途絶える。食事にも困り、寒さのあまり描いた絵を燃やして暖を取る日々が続いた。

世界が驚嘆した「乳白色」

戦争の終結とともに、藤田の運命は一変する。日本画の面相筆と墨の技法を油彩画に融合させた独自の画風──陶磁器を思わせる「乳白色の肌」で描かれた裸婦像が、パリの美術界を震撼させたのである。

1921年のサロン・ドートンヌで発表した裸婦像は絶賛を浴び、藤田はエコール・ド・パリの寵児となった。ピカソ、モディリアーニ、コクトーらと肩を並べ、おかっぱ頭に丸眼鏡、ちょび髭というトレードマークで、フランスでは知らない者がいないほどの人気を得た。1925年にはフランスからレジオン・ドヌール勲章、ベルギーからレオポルド勲章を授与された。

この「乳白色」の秘密を、藤田は生涯誰にも明かさなかった。近年の科学的調査によって、特殊な下地に和光堂のベビーパウダー(シッカロール)の主成分であるタルクが混合されていたことが判明しているが、その完全なレシピは今なお謎に包まれている。


第4章 戦争画家──「国のために戦う一兵卒と同じ心境で」

帰国と戦争画への傾斜

1929年に17年ぶりに帰国した藤田だが、日本の画壇では正当な評価を得られなかった。南米旅行などを経て、1939年に再びパリに渡るが、第二次世界大戦の勃発で翌1940年にパリを脱出し、3度目の帰国を果たす。

帰国後、陸軍報道部から戦争記録画の制作を要請された藤田は、陸軍美術協会理事長に就任し、戦争画の制作に没頭する。

「アッツ島玉砕」──人々が賽銭を投げた絵

1943年に描かれた「アッツ島玉砕」は、縦約2メートル、横約2.6メートルの大作で、日本の戦争画の中で最もよく知られた作品とされる。暗い画面の中、日米両軍の兵士が折り重なるように殺し合う光景を、藤田は線香を焚きながら描いたという。

この絵が「国民総力決戦美術展覧会」の目玉として各地を巡回した際、驚くべき光景が生まれた。藤田自身がこう語っている──巡回展の会場で、「アッツ玉砕の図」の前にひざまずいて両手を合わせて祈り拝んでいる老人たちの姿を見た。老人たちは賽銭を絵の前に投げ、描かれた兵士たちへの供養を捧げて瞑目していた。生まれて初めて自分の絵がこれほどまでに人々の心を動かしたことに、藤田は唖然として打たれたという。

しかし藤田は、この絵を単なるプロパガンダとしてではなく、あくまで芸術作品として描いていた。古典的な西洋絵画の構図法を駆使し、画面下端には紫色の花を配している。そしてこの絵を描いていた1943年、藤田は秋田の支援者・平野政吉に「日本の敗戦が必至である」と語っていた。


第5章 追放──「絵描きは絵だけ描いて下さい」

戦争責任の矛先

1945年8月の敗戦後、日本の美術界に戦争責任追及の嵐が吹き荒れた。その矛先は、戦争画の第一人者であった藤田に集中した。

日本美術会の書記長で、同時期に日本共産党に入党した内田巌などにより、藤田は半ばスケープゴートに近い形で「戦争協力者」と糾弾された。しかし実際には、戦時中に戦争画を描いた画家は藤田一人ではなかった。多くの画家が軍の要請に応じて戦争記録画を制作していたが、戦後はその責任を藤田一人に押しつけるかのような風潮が生まれた。

藤田自身は手記の中でこう嘆いている──「国のために戦う一兵卒と同じ心境で描いた」のに、なぜ自分だけが非難されなければならないのか、と。

日本との永遠の訣別

かねてより藤田のファンであったGHQ所属の出版担当官フランク・E・シャーマンの協力を得て、1949年3月、藤田は日本を発った。渡仏の許可が得られたとき、藤田はこう言い残した。

「絵描きは絵だけ描いて下さい。仲間喧嘩をしないで下さい。日本画壇は早く国際水準に到達して下さい」

以後、藤田が日本に戻ることは一度もなかった。渡仏後、藤田は繰り返しこう語った。

「私が日本を捨てたのではない。日本に捨てられたのだ」


第6章 レオナール・フジタ──礼拝堂に眠る画家

フランス国籍とカトリック洗礼

1955年、藤田は妻の君代とともにフランス国籍を取得し、日本国籍を抹消した。

そして1959年、73歳の藤田はランスのノートルダム大聖堂でカトリックの洗礼を受けた。洗礼名は「レオナール」──ルネサンスの巨匠レオナルド・ダ・ヴィンチのフランス語読みである。代父を務めたのは、シャンパンメーカー「マム」社長のルネ・ラルーと「テタンジェ」のフランソワ・テタンジェだった。

十代で暁星の夜学に通い、カトリック修道士からフランス語を学んだ少年は、七十年の歳月を経て、フランスのカトリック信者となった。

フジタ礼拝堂──最後の作品

1966年、80歳の藤田はランスに「平和の聖母礼拝堂(フジタ礼拝堂)」を完成させた。設計から内装のフレスコ画まで、すべてを藤田自身が手がけた。フレスコ画は素早く仕上げる必要があり、やり直しもできない技法であったが、老画家は3か月をかけて内壁を描き上げた。

礼拝堂内のステンドグラスには、広島への原子爆弾投下を想起させる「戦争の悲惨さ」が表現されている。戦争画家として日本を追われた男が、最後に建てた礼拝堂の中で、戦争への鎮魂を込めていたのである。

1968年1月29日、藤田嗣治はスイスのチューリヒで癌のため死去した。81歳。遺体はフジタ礼拝堂に埋葬された。


おわりに──牛込から片瀬へ、パリからランスへ

藤田嗣治の人生を振り返ると、その運命は暁星学校の夜学から始まっていたことがわかる。

牛込区新小川町で生まれた少年は、九段にあるフランス系カトリック校の夜学に「ひそかに」通い、フランス語を学んだ。暁星で受けた教育は、パリでの成功を支えるフランス語の素養となり、やがて晩年のカトリック改宗への精神的な伏線ともなった。

興味深いことに、暁星の正規の卒業生である山本信次郎もまた、藤田と似た軌跡をたどっている。暁星でフランス語とカトリック精神を学び、軍人となり、天皇と教皇の架け橋となった。山本が暁星のフランス語を日本海海戦で活かしたように、藤田は暁星のフランス語をパリの画壇で活かした。山本が晩年に片瀬の土地をカトリック修道会に寄付したように、藤田は晩年にランスの礼拝堂をカトリック教会に捧げた。

軍人の家に生まれ、暁星でフランス語を学び、世界で活躍し、戦争と信仰の間で引き裂かれた──この構図は、近代日本とフランス・カトリック世界が交差する地点に立った人々に共通する宿命だったのかもしれない。

藤田が日本を去ったあと、戦争画153点はGHQに接収され、のちに「無期限貸与」という曖昧な形で日本に返還された。東京国立近代美術館に保管されている「アッツ島玉砕」は、今も藤田の名とともに、画家と国家、芸術と戦争の関係を問い続けている。


参考文献

  • 藤田嗣治『腕一本・巴里の横顔』近藤史人編(講談社文芸文庫、2005年)
  • 藤田嗣治『藤田嗣治随筆集 地を泳ぐ』(平凡社ライブラリー、2014年)
  • 林洋子『藤田嗣治 作品をひらく』(名古屋大学出版会、2008年)
  • 北村小夜『画家たちの戦争責任──藤田嗣治「アッツ島玉砕」をとおして考える』(梨の木舎、2019年)
  • 平山周吉『戦争画リターンズ──藤田嗣治とアッツ島の花々』(芸術新聞社、2015年)
  • 富田芳和『なぜ日本はフジタを捨てたのか?──藤田嗣治とフランク・シャーマン 1945〜1949』(静人舎、2018年)
  • 近藤史人『藤田嗣治「異邦人」の生涯』(講談社文庫、2006年)
  • 徳安茂『軍服の修道士 山本信次郎 天皇と法王の架け橋』(平凡社)

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